水曜日、菊地成孔さんと大谷さんの「聴きながら見ることはどのくらい可能か?」の講義。早稲田の友人ともぐりに行く。
この日はハイ・カルチャーのファッション・ショーと、ブラック・カルチャーとが、急速に接近してきているのではないか?という話。だけど、この話をする前の段階の面白かったキーワードを整理しちゃお。ノート結構真面目にとってたから。勝手に。
いちいち面白い話だけど、時々わからなくなるんだよねえ。まあ、一種のポエムみたいな講義だからいいかなあ。


<マリアージュについて>
マリアージュとは「組み合わせ」の意味。普段僕たちは「これとこれが良く合う」という感覚を持つことがある。例えばパンに珈琲。この部屋にはこの家具。前者は味覚におけるマリアージュ、後者は視覚におけるマリアージュと見ることができる。これらは「単一の感覚器官」におけるマリアージュだ。だとすると、「複数の感覚器官」のマリアージュとは何だろう?それは「この映画にはこの音楽が合う」といったような例えば視覚と聴覚のマリアージュだ。
実は「単一の感覚器官」におけるマリアージュの理論は数多く存在するという。料理本や色彩学の本等。しかし、「複数の感覚器官」となるとそれを解明する理論は今のところ発見されていないみたい。というより存在しないらしい。
だが、エイゼンシュタインは晩年に残した『映画における第四次元』という論文の中で、映画にも音楽にも無意識領域が存在し、それらが響き合うことで音と映像は完璧なマリアージュを実現するのだ、と述べているという。
しかし彼もモンタージュ理論において映像メディア(単一の感覚器官)における無意識領域のコントロール(編集による意味の生成)には成功したものの、音と映像の無意識領域が響き合うということにおいてはそこまでの成果をあげたとは言えない。
講義ではグラビア・アイドルが乳を降る映像にシュトックハウゼンをかけたり、戦艦ポチョムキンにJayZ(HipHop)をかけたりしながら様々なマリアージュを試す。そこには「必然性」はなく、ただ「偶然」にその時にかけたものが合ったり合わなかったりするのだ、という感覚的な真実が立ち現れる。
<無意識領域>
フロイトの「無意識」の発見以降、「無意識領域」という考え方・思想は構造主義から連なって大きな潮流として生まれる。その中で音楽学においても、物理的に上方に伸びる倍音ではなく、虚数として下方に伸びる倍音を設定することで、西洋の音楽理論では理解できないノイズ性の高い調整世界から生まれる音楽(ブルース等)を理論的に説明しようとする動きが生まれたという。それが「下方倍音列」という発想だ。これは音楽における「無意識領域」を捉えようとするものだという。
エイゼンシュタインはこれらの思想に影響され、「映画(映像)にも無意識領域や倍音がある」という着想を得てモンタージュ理論をつくり出した。
リュミエールの初期サイレント映画を鑑賞。初期のサイレント映画には物語性がまだなく、映像にはたくさんの無意味と思われるノイズ的な要素(関係のない背景の動きなど)が目立つ。エイゼンシュタインの「モンタージュ理論」とは、映像を抽象化・象徴化することによって、そこに「意味」を発生させ、その意味を繋ぎ合わせることでノイズ性をコントロールし、映像に物語を付加させるという方法だったのだ。その際、ノイズは物語という輪郭線に集約されて表向きには目立たなくなる。その後、こうした物語やメロディーといった単線的なものが近代的な所有欲と適合し、発展していくという流れが生まれたという。
エイゼンシュタインは、モンタージュ理論以降は、更に音楽と映像における無意識領域を合致させ、同時にコントロールする統一理論へと探求を進めていく・・。(けれども、結局その夢は達成されない。)
講義では更にフロイトやらラカンの精神分析学の考えを音楽の歴史に当てはめて考えてしまう、というかなりぶっとんだ内容が展開。参考文献のひとつが和光大名誉教授の岸田秀『ものぐさ精神分析』だったりする。(ひゃ!)
様々な音楽の表現手法を上方倍音列世界/下方倍音列世界という観点から検証。後期ロマン派から始まった西洋の和声から発展した音楽・・新古典派、トータル・セリエリズムから電子音楽、ドビュッシーの非解決的音楽までこれら全てを上方倍音列世界:意識世界で発展してきた音楽と位置づける。そしてブルーノートによって生まれた新たな調性世界から発展したブルース、ジャズ等を下方倍音列(ノイズ性の高い無意識層)世界の音楽として考えてみる・・という本人達も自覚し公言しているようにかなり突飛な歴史観を展開。でも、面白い!それなりの根拠とある一定の説得力がある。ブルースには西洋音楽理論から見た際の調性的なノイズの他にも、即興性や揺らぎ性が構造上多分に含まれているという。
マルクスが資本主義を下部構造から分析し、唯物史観とかいうやつを組み立てたように、視点によって様々な歴史観が立ち現れるのは非常に面白い。サイン波による音楽も思想的には古代ギリシャのプラトニズム(イデアの思想)から繋がっているものだと見ることもできてしまう。歴史という実際に起こって来た出来事(史実)の連なりを、「歴史観/世界観」(解釈)から捉えることで、決して一面だけでは見ることのできない歴史が見えて来る。その一つ一つは決して完璧ではないにしても、その不完全さや偏りもまた楽しみのうち。
<何故服は音楽を必要とするか?>
ファッション・ショーを映画のように「音楽つきの映像メディア」として捉え、音楽と服とがどのようにマリアージュされているのかを探っていく。パリコレを始めとするハイ・カルチャーのファッション・ショーの映像を幾つか鑑賞。そこである特徴的な現象に着目する。それは、モデルの歩くリズムが音楽の律動から微妙に「ズレ」ているということ。講義では映像の音を消し、様々なBGMを上に被せる。とにかく何でも合ってしまう。次に音のbpmを変化させ、歩調にぴったり合うようにかけてみる。すると、不思議なことにもの凄く不自然に感じられる。まるでロボットのようでエレガンスが消える。
ズレが生む「エレガンス」。音楽を無視し、音楽とは関係なく、揺らぎながら歩くというある種冷徹なその姿が「エレガンス」を生むのではないかという。こうした「ズレ/揺らぎ」の文化としてのハイ・ファッションがあるという。つまり、ここでは音楽という軸が「エレガンス」を生むメディアとして機能しているのだ。
YouTube / LANVIN FW PARIS 2006
<ブラック・ミュージックにおけるズレ/揺らぎ>
アメリカ大陸に連れて来られた黒人がポリリズミックなアフリカの音楽とは異なるBPM(テンポ)を軸とした音楽文化を発展させたのは、黒人社会を形成するための「ルール」づくりの一環だったのではないだろうか?という考察から始まり、一定の時間軸が張り巡らされたBPMがあるからこそ生まれる独特の「ズレの文化」を検証。(ファッションにおける音楽との共通項)
講義ではヒップホップMCの時代ごとの変化を比較検証。こうして聴くと段々とラップに「ズレ」が生まれる行程がわかる。そしてそうしたルールとズレの文化が彼ら中で発展し、更にその文化内で、音楽の価値の生成と交換のシステム「社交」が確立されていく。
<接近する2つのカルチャー>
そしてこの回の主題であるブラック・カルチャーとファッション・ショーの接近。
言葉(歌詞)が汚い、ヒップホップには既に独自のファッションが決まっている、というを理由に完全に住み分けられていたこの2つの文化が、ここにきて手を結び始めているのではないか、という話。
ファッション・ショーでは、音楽のリズムという軸があり、モデルの歩調がそれを無視してズレることでエレガンスを生む。そして、ファッション界には実数値(実際に売れた部数)では計ることのできないファッション(記号)の価値の生成と交換の場としての「社交」が存在する。
つまり、この2つには「揺らぎ」と「社交」という大人文化が共通して存在しているのではないかという。とするならば、この2つは必ず共振する部分を持っておりいずれ結合する、というのが今回の講義の予言。
そして、その証拠のビデオがこれらしい↓
ヒップホップをバックに、ファッション・ショーが展開されるという全く新しい文化が実際に生まれつつあるという。
YouTube / N.E.R.D - Everyone Nose
<幼児性>
最後のダンサーは踊りまくる。無視していた音楽に合わせて踊る、という行為は実は「エレガンス」の崩壊とも言える。
「ズレ/揺らぎ」の対極にあるのは「シンクロ」だ。視聴覚が分断されて統合に向かう中で20世紀に起こったのがこの「シンクロ」だと言う。音と映像が「シンクロ」することで現実を切り取ろうとしたカメラ。また、「シンクロ」を極めに極めたカートゥーンにおいては音楽とキャラクターの動きが異常なまでにぴったりと同期する。その最たるものがディズニーの「白雪姫」。ものが動けばそれに合わせていちいち音楽が鳴り、100%の「シンクロ」が起こる。これは幼児的な全能感・万能感を満たすものではないか?と発達心理学から視聴覚メディアの歴史を捉え、日本のサブカルチャーについて触れる。
日本のサブカル=アニメ文化が世界に浸透する中で、「ズレ/揺らぎ」と「社交」によって大人文化を確立していたブラック・ミュージックを始めとするエレガンスは今後幼児化へと向かっていくのではないか?という予測を述べる。例えば最近のプラダ、急速にコスプレ化しているみたい。
<バニラの香り>
矛盾していたりうまく繋がらない箇所(歴史的流れ等)は本を読めば咀嚼されていくんじゃないかな。読んでみよっと。これくらいある意味で偏りがある話は面白い。これからも奥深い菊地大谷ワールドが炸裂していくに違いない。楽しみむーにょ。
講義後友人達とタイ料理屋でフィーバー。甘辛パッタイの味と店内に流れるタイ・ポップスでラリラリラリアット。濃厚な一日。バニラの香り。
そういえば今回の講義内容は『何故服は音楽を必要とするのか?』という本を基にしているらしいのだけど、この前書店で本を手にとったら、帯にこんなことが書いてあった↓(以下抜粋)
「頭の中で素敵な音楽が鳴っている。その音楽に導かれてその日に着る洋服を選ぶ。すると、とても上手くいく。そして、外に出る。外に出ると花の香りが季節を感じさせてくれる。嬉しくなって、どこまでも歩いてしまう。一日中音楽が頭の中で鳴っている。その音楽のおかげで、今日という日が大切な、よい一日になり、世界が意味を持って来る。キクチさん、これはそういう本ですよね?」
最後の「キクチさん、これはそういう本ですよね?」は特に太文字で、念を押すようにでかでかと書いてあった。キクチさんはこれにどう回答するのだろうか?「いや、そういう本じゃないよ、これは」って答える気がする。僕もそう思う。全然関係ない気がする。
耳の奥に香るウェンズデイズ・ファンタジー。
<講義で取り上げていた文献のメモ>
・『東京大学のアルバート・アイラー—東大ジャズ講義録・キーワード編』
・『憂鬱と官能を教えた学校』
・『服は何故音楽を必要とするのか?—「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還された音楽達について』
・『ブルー・ノートと調性—インプロヴィゼーションと作曲のための基礎理論』
・『フロイト&ラカン事典』
・『ものぐさ精神分析』
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