Monday, June 23, 2008

Fantasy of Reality

 

この前、興味深い記事をネット上で見つけた。
『イスラエルで「建国根拠なし」本、ベストセラーに』という記事だ。イスラエルの建国の根拠である「先祖が住んでいた古代イスラエルの地に戻ろう」というシオニズム運動の思想の虚構性を指摘する内容の著書が本国でベストセラーになっているという。
 
本のタイトルは『ユダヤ人はいつ、どうやって発明されたか』。そうそう、知りたかったんだ、そのこと!!イスラエルの謎を解くヒントがこの記事に書いてあった。
歴史学者である著者によれば、現在イスラエルに住んでいるユダヤ人(イスラエル人)の祖先は他の地域で後に改宗した人々で、古代ユダヤ人の子孫は実は現在のパレスチナ人だという。追放されて散り散りバラバラになったというあの話は信憑性の薄い「神話」であり、本当は古代ユダヤ人の多くは農民となってその土地に残り、現在のパレスチナの人々へと繋がっているというのだ。
 
そもそも「ユダヤ人」というのは「民族/Ethnic Group」でも「国民/Nation」でもないと言う。「ユダヤ人」の定義はあくまでも「ユダヤ教を信じる人」なのである。つまり、古代イスラエルとは別の場所で後に改宗した人でも「ユダヤ人」は誕生する。一方もともとの場所に留まった人々はイスラム教等に改宗して「ユダヤ人」の記号を失い、現在は「パレスチナ」という地域に住む「パレスチナ人」に分類される。
歴史は繰り返すという言葉があるが、もし本当にこの話が事実に近いものならば、古代ユダヤ人の子孫(パレスチナ人)は再び迫害を経験していることになる。
 
僕は本をちゃんと読んでいないし、検証もしていないのでこの話がどこまで本当かはわからない。でも、世の中にはこうした”「神話」が言説の繰り返しの中で人々の間に定着し、「虚構」が「現実」化する”というケースが、少なくない。「本当のことが知りたい」という欲求がかき立てられた記事だった。
こうした問題は何もこれだけに限ったことではない。そもそも「××人」や「××民族」という分類も歴史の偶発性の中で生まれたものだとすれば、ある種の虚構性に満ちたものである。
  
例えば、大学のゼミで輪読したB・アンダーソンの『想像の共同体』やE・ホブズボームの『創られた伝統』といった本では、近代的国民国家の成立以降、いかにしてナショナル・アイデンティティの意識が「発明」され、形成されてきたかを論じている。
日本で言えば、我々が「私は日本人だ」という民族的なアイデンティティを持っている場合に、そういった国家をひとつの基準とした自己同一性がいつ頃から生まれたか?ということを研究する際の入門書としても読まれている本だ。
例えば日本においては身分制度があり、交通手段が発展していなく、地域や身分によって言葉もばらばら、文化もばらばらという前近代(江戸時代以前)においては、沖縄から北海道までの全ての人が同じ「日本人」という意識を共有することはあり得ないという見方がある。
近代になって国民国家の概念が成立し、封建的な身分制度が崩壊し、自由で平等な個人が生まれ、国境や法や暦が制定され、交通が発達し、教育やメディアによって均質的な言語や文化が全国に浸透することが可能になってから、初めて「我々は皆日本人」という共同体意識が生まれ得るというわけだ。こうしたアイデンティティの裏側には「会ったことのない我々、住んだことのない故郷」という微妙な真実が見えてくる。国家とは近代以降誕生した「想像の共同体」であり、国家単位の文化もまた近代に「創られた伝統」である、と2つの文献を日本の例に当てはめて考えることもできる。
 
また、日本は「民族:文化習俗的共同体/Ethnic Group」と「国民:政治的共同体/Nation」の区別が殆どない点が世界的に見て特殊だ。これは明治政府の政策から戦後の政策に至るまでの歴史的な流れの中で形成されてきた「単一民族神話」が元になっている、と主張しているのは小熊先生の『単一民族神話の起源—「日本人」の自画像の系譜』という本。例えばインドに行けばタクシーの運ちゃんでも「ああ、あの国境は最近出来たものでしょ」ということを知っているのに対して、日本ではまるで大昔から日本という国家があるように思われる、その意識の原因のひとつには戦後に発明された「単一民族神話」が深く関わっているという。
しかし、こういった日本の特殊な例から見えてくるのは、実は「国家」だけではなく、「民族」という共同体の分類もまた歴史的偶発性の中で発生してきた分類ではないかということだ。Ethnic Groupも「揺らぎ」に満ちているのではないか。
 
以前輪読した『ことばと国家』の中で田中克彦は「国家主義に抗する民族主義」という考え方を提唱していた。「国家」と「民族」の間に必然的な結びつきがないということから、「民族文化を潰す国家」という構図を提示し、「民族主義」の大切さを訴える。彼の「民族」の定義は「言葉」である。国家が生み出した「国語」ではなく、母親から受け継いだ「母語」こそ守るべき「民族」や「民族文化」の基盤であるという。しかし最終的にこの本の後半では民族主義・本質主義が暴走した結果としてのナチスドイツを反省し、クレオール文化を例に挙げて「言葉は民族をも越える」というところに帰結する。しかし私が決定的な矛盾だと感じたのはこの「言葉は民族を越える」という下りである。では結局「民族」とは何か?著書は本の最初で「言葉は揺らぐもの」と言っているように、結局「民族」も「言葉」も厳密には線引きのできない「揺らぎ」のあるものだということが最終的に示唆されている。
 
所詮は社会にある様々な分類や価値体系、軌範は人間の頭の中にあるものだと言ってしまえばそういうものだ。ポスト構造主義の思想の流れには、こういった絶対的に存在しているように思えるものも、実は近代になってからつくり出された境目の曖昧な透明な存在だ、ということを突く考えが溢れている。しかしそういった虚構がうまく作用しているお陰で社会は安定しているという側面もある。だが一方で暴力性を帯びると争いの原因にもなる。ある時に虚構が現実化し、現実が虚構化する。そうした社会の中に生きる我々の課題は何なのだろうか?我々は近代をどう評価していけば良いのだろうか?社会というものをどう捉えていけば良いのだろうか?その考えの種として、色んな考え方を知ってみたい今日この頃。
僕は常に産卵してたい人なので、何が本当かわからない、絶対的に正しいことは何もないかもしれない、というニヒリスティックな状態になっても創造的でありたい。
能動的ニヒリズモの向こう側へ。現実を相対化する超現実世界の扉の向こう側へ。サンデイズ・ファンタジーの香る世界の裏側へ。
 

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