Saturday, June 21, 2008

再考:電飾仏陀

 

 
東南アジア旅行に行った時に、僕の脳天を激しく揺さぶった電飾寺院。ベトナムのホーチミンで見た寺院では、リバーブMAXのアンプからお経を爆音で垂れ流し、巨大な仏像はカラフルなネオン管やLEDでぴかぴかと光る。寺院の端ではノイジーなベトナムギターと胡弓、太鼓を奏でる楽団。人々は仏壇に向かって束ねたお香に火をつけて礼拝を行う。煙、ノイズ、ぴかぴか・・その光景は僕の眼と記憶に鮮明に焼きついた。
こうした宗教という前近代的なものの中に何のためらいもなく近代的なテクノロジーが入り込んでいる点が非常に面白い。日本ではまず仏像は光らない。
 
最近、小熊先生の『インド日記』という本の中でこれに関する記述が載っていた!!実はインドでも同じような光景を目にすることがあるようだ。

『ヒンズーの女神像という「伝統的」なものと、ライティング・スピーカー・自動車といった「近代テクノロジー」の同居が、もっとも興味深かった。先日のデリーでのブックフェアでも、インド側出版社の出品で目立っていたのは、宗教やヨガの本と、コンピュータの本だった。両者を結ぶキーワードは、「マジック・パワー」である。大行進の人々は、ラウドスピーカーやライティングを、魔法の機械として楽しんでいるのだろう。
 ナイジェリアのミュージシャンが、西洋の電気楽器を使うと伝統が損なわれないのかと質問されたさいに、「逆だよ。神話のスピリットは新しいテクノロジーを使ったほうが表現しやすいんだ」と言っていたことを思い出す。大行進の中には、蛍光灯をまるで『スター・ウオ−ズ』の戦士の剣みたいに「光の棒」として全員に掲げさせ、行進していたコミュニティもあった。私はそこで彼らに、カメラのフラッシュという、「魔法の花火」をそえてあげたというわけだ。』

・・(笑)最近ではグローバリゼーションによって先進国で生まれたITなどの先端的なテクノロジーもどんどん流入してきている。或は歴史的な段階をすっとばして流入してきたために、こうした文化が生まれるのかもしれない。一方でテクノロジーと神話の結合には近代の日本との共通点もある。
 
『それと同時に、ミニコンポの上には、しっかりとヒンズーの小さな神像が置いてある。こうしたテクノロジーと神話の結合は、昨夜の祭りのような活気の源でもあるが、しばしば言及しているように原理主義の基盤でもある。近年のヒンズー原理主義もビデオを作成して原理主義の普及に使っているし、核兵器製造計画だって神話の言葉で行なわれる。明治政府も、明治天皇の肖像画の写真を全国に配布して神話教育と併用した。よくも悪くも、神話とテクノロジーの結合から力が生まれているのが現在のインドである。』
(小熊英二『インド日記—牛とコンピュータの国から』新曜社,2000)
 

近代的なテクノロジーが原理主義思想やナショナル・アイデンティティを強化する道具として使われる。そもそもナショナリズムやグローバリズムは近代的なテクノロジー無しには成立し得ないという表裏一体の構造を持っていると考えればこれは必然的な結びつきと考えられるかもしれない。いかにして道具(テクノロジー)を扱うか、という問題が、こうしたところにも浮かび上がってくる。
 
ここから発想することは、異なる文脈や考え方でテクノロジーを捉えることで、何か創造的なことができないか、ということ。イヴァン・イリイチの言う「コンヴィヴィアルな道具」のひとつの解釈に、道具(テクノロジー)を時間と空間を相対化する視点で見た時に、何が創造されうるか?ということがあるように思う。原始と未来は響き合うことができるだろうか?
 
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1910年の人が想像した2000年の世界。服装や町並みといった人々の生活様式、文化が変わらずにテクノロジーが進化している。不思議なファンタジー。懐古趣味やレトロ・フューチャーの循環史観的文脈ではなく、「時間軸を越えたテクノロジーの創造的ドッキング」という文脈で捉えることができないか。↓
 

 
でもこんなことを考えていたら、とても奇妙な夢を見た。カオダイ教の寺院の中・・ある老人が僕にあの球体の眼についての秘密を教えてくれる。あの球体の中は実は機械仕掛けになっていて、インターネットに繋がり、この世の中の情報を常に蒐集して解析しているというのだ。あらゆる複雑な世の中の動きを解読して、やがて人類に向けてメッセージを発する時が来るらしい。その時を私は待っている・・と言うのだ。超現実的な怖い夢だった。