20世紀に偉大な業績を残した発明家や科学者が晩年にどのような研究に取り組んでいたかを調べてみると、今の感覚で言うところの非科学的・神秘主義的な研究が多い点が面白い。近代科学が確立していく過程で、神秘主義と科学が矛盾せずに同居していることがある。
交流電流やラジオ、蛍光灯を発明したニコラ・テスラ博士は、人間の頭の中のイメージを投影する映写機や、天候などの自然環境を意のままに操る装置を始め、晩年は世界システムという永久的なエネルギー供給システムを考案し、研究に取り組んでいたというし、エジソンは人間のエネルギーは宇宙のエネルギーと一緒で不変ということを突き止め、死者(霊界)と通信するための電信装置の開発に取り組んでいたという。ニュートンも錬金術にのめり込んでからは科学的な業績は一切あげてないみたいだ。
そういえばアインシュタインがこの世を去った年に書かれたというメモには
「これが最後です。これがゴールなのです。私は神のパズルを全て説いてしまいました。アインシュタインはアインシュタインでいたいのです。」
と書かれていた。これは単なる言葉遊びと言われていたが、これを発見したジャーナリストは、「アインシュタイン」がドイツ語で「石」を表すことから、「石は石でありたい」と読み解くことができ、それはすなわち<物質が存在するその根源には、そのものがそのものでいたいという「意志の力=精神性」がある>ということを言っているのではないか?という推察を残している。徹底した唯物論者であったアインシュタインは、晩年宇宙の全ての謎を解くという「統一場理論」に全ての力を注ぎ込んだと言われている。しかし、それは彼の死によって未完となっている。物質によって構成されるこの世界の謎を紐解いていくと、そこには物質を越えた何らかの存在を感じる時がある。アインシュタインは一体最期に何を思ったのだろうか?
こんな話もある。霊界を絶対に信じなかった脳科学者が、脳を解剖し分析しているうちに、「心」の物理的な所在が不明であったことから「魂」の存在を信じるようになり、晩年は霊界の存在を信じるようになった、というのだ。
ここには、「科学的」か「非科学的」という二項対立が存在しない地平が広がっている。死期が近づくと「信じたいものをただ信じる」という心理が働くのだろうか。「何か大きな存在へ」というテーマにシフトしていくのだろうか。科学的な探究心と、物質を越えた存在或は自分の生と死を見つめようとする宗教的な探究心が合流している。
宗教と政治を切り離し、法律や政治は「神」(自然の摂理)ではなく、「人間」が作り行うんだ、という人間中心主義を築き上げた西洋近代。そして、聖書に書かれていることではなく、「人間」が実験し、確かめることで世界を機械論的な因果律で理解しようとして発展した近代科学。しかし、科学が追求する形而上学的な「真理」の存在に疑いをかけるポスト・構造主義思想。そうした歴史の延長線上に立っている今という時代、宗教と科学という二項対立を越えた探求の道は残されているのだろうか?
機械論的因果律によって世界を解明しようとする科学的世界観と、自らの生と死の問題を見つめる宗教的な世界観、それは今も自分達の中に同居している。しかし、そのどちらもがこの世界の謎を解明する手段としてふさわしいか、ということに関しては懐疑的な考え方が多く存在するみたいだ。一体これから世界(や社会)をどのように探求していく方法があるのだろうか?と、思考があっちらこっちらとっちらかってしまうほど刺激的なニコラ・テスラのファンタジー。歴史に消えた珍妙な発明品のファンタジー。
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エジソンは、人間の魂もエネルギーであり宇宙のエネルギーの一部であると考えていた。エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶なのだと考えていた。エジソンの言によれば、自分の頭で発明をしたのではなく、自分自身は自然界のメッセージの受信機で、「宇宙という大きな存在からメッセージを受け取ってそれを記録する事で発明としていた」に過ぎないのだという。
(出典:wikipedia - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%82%BD%E3%83%B3)
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最近こういう本を見つけた。歴史に埋もれた数々の珍妙な発明品が紹介されているみたい。↓
『ポピュラーサイエンスの時代』(原克著)
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