Wednesday, December 30, 2009

タラスコ・シンクロニシティ

 

 
どうしよう、この世界に流動するファンタジーのひとつをまた見つけてしまった。私はこの一連の出来事を「タラスコ・シンクロニシティ」と呼ぶことにしよう。
 
3年前、ベトナム旅行に出かけた私は、そこで数々の印象深い風景たちと出会った。プラスチックの椅子がブラウン管テレビを囲むようにして作られた簡易シアターや、エレキギターのノイズに合わせてお経を歌う僧侶、ピカピカと明滅を繰り返すLEDハイテク仏壇、そしてそうした仏具用エレクトロニクスを扱う専門店・・こうした近代テクノロジーと伝統とが融合したかのような光景は私の想像力をどこまでも掻き立てた。旅の終わり、私は町の仏具専門店に立ち寄り、電飾グッズを数点購入した。
 
そんな日常世界から日本に帰国した私の目には、何気なく自室に置かれたテレビやラジオといった通信機器がどこか奇怪な存在として映った。透明な電磁波をキャッチし、見えないエネルギーを青白い光に変換して画面に映し出すテレビは、それだけで神秘的で怪しい装置に見えてならなかったのだ。その時、ベトナムで購入した電飾をどこに取りつけるかを私はすぐに理解した。
 
「ライライ・ジャイーラ・テレビ」。そう私が名づけたテレビは一種の「祭壇」だった。空気中を行き交うRadio Gnomeをキャッチして光を発する装置の持つ、もうひとつの姿・・。頭の中で妄想がスパークした数日後、私は顔面に白い塗料を塗りたくり、ギターのフィードバックノイズを爆音で鳴らし、祭壇に見立てたテレビに向かって「マルハバ・ジャイーラ」と名づけた儀式を一人執り行っていたのだ。テレビの光を全身で浴びたい・・何かに取り憑かれたような感覚があったのを今でも覚えている。
「マルハバ・ジャイーラ?もういいよ、つき合いきれない、俺は帰る。」そう言って何人の友人たちが私の部屋から立ち去っていっただろうか。あの奇怪なテレビ祭壇のある部屋から。(数名は理解を示してくれた。)
 
 
3年前、衝動的に部屋に創設した「ライライ・ジャイーラ・テレビ」。

 
やがてベトナムでの興奮と、テレビに対する不可思議な感覚が自分の中で記憶の奥へと埋もれていくに従って、私の「ライライ・ジャイーラ・テレビ」は徐々に解体され、もとの健全な姿へと戻っていった。しかしそれから数年経った今、あの時の衝動は何だったのだろうか?と考え直す時が来たのかもしれない。『移動する聖地―テレプレゼンス・ワールド』・・その奇妙なタイトルの本を手にしたのは、友人たちと料理店で話をした次の日だ。ページをめくった私の目に衝撃的な写真が飛び込んで来た。
 
「タラスコ族のテレビ祭壇」そう注釈の入った写真に映っていたものは、明らかに祭壇として奉られたテレビに間違いなかった。「こ、これは一体・・。」意識がどこか遠くに飛んでいくような感覚。変な汗が止まらない。今一度落ち着いて本を読んでみる。テレビ祭壇の写真が載っているのは今福龍太さんという人類学者と、伊藤俊治さんという美術評論家、そして港千尋さんという写真家の方の対談『憑依する音と映像』という章だ。この章は更に5つの小見出し、1.『精神の運動と情報通信の革命』2.『祭壇/「聖性」の座標軸』3.『電波の祭壇性』4.『ドリーム・タイムの創出』5.『幻覚作用と物質的想像力』によって構成されている。どれも激ヤバなタイトルだ。以下、その本に記されているとても興味深い内容を幾つか抜き出して要約する。
 
 
「タラスコ族のテレビ祭壇」(画像元:伊藤俊治ほか『移動する聖地ーテレプレゼンス・ワールド』, NTT出版, 1999, p82, ISBN-13: 978-4757100213)

 
・霊的な世界の探求や、異界と交信するという運動が19世紀のヨーロッパで盛り上がりを見せたが、それは電波の発見や、マルコーニ博士による大西洋横断の無線通信の成功やラジオの発明など、通信技術の発達と重なるようにして盛り上がっているし、そもそも「メディア」という言葉は「霊媒(メーディアム)」と語源的に同じである。
 
 
Guglielmo Marconi (1874-1937) via The Marconi Company Web

 
・祭壇とは何か?ある一画を特別な空間として扱うという行為は、何かが降りて来てトランスする際に、異界に対して元の自分の位置を示す座標軸としての意味を持つのではないか。日本の祭りでも、異界からやってくる霊に対して、祭りがどこでやっているのかわかるように「依代(よりしろ)=背の高い木」を立てるように。
 
・メキシコ中央高原に暮らすタラスコ族の村では、驚いたことに家の中にある祭壇に旧式のテレビが奉られている。インディオの前に突然表れた近代文明のシンボルとして飾っていると解釈することもできるが、テレビモニター自体が祭壇的性格を持ってはいないか。
 
・マクルーハンは、テレビは光を視聴者に浴びせかけると言った。60年代にブライオン・ガイジンとイアン・ソマービルが作り出した「ドリーム・マシン」。それは脳波に合わせて光をまぶたに放つことで幻覚症状を促す装置だ。ブライオンはこの装置を、目をつぶって鑑賞する最初の芸術作品と言い表している。つまり、これらは光を浴びることで「憑依する映像」を観るための装置ではないか。
 
 

 

 
私がベトナムに行って帰って来て自室で行った行為が、この本に書かれている内容と結びつき交差する。何の関係もないような遠いメキシコのタラスコ族と過去の自分との奇妙な関係性。ユングは、互いの事象が類似性・近似性を備えるとき、そこには普遍的な事象を作り出す力の連続性が宿ると言う。そこには何ら科学的根拠は示されていないが、しかし、周りの環境が働きかける導きの根底には、やはり何らかの作用が働いているように感じざるを得ない。
何故なら、見えないものを視覚化し、我々と対面してその光を浴びせかけるテレビは、祭壇化することで異界と繋がるかもしれない、と考えるのは通信機器に対する原初的な思考形態かもしれないからだ。
 
『移動する聖地』。この本が私に見せてくれたファンタジック・リアリティの銀河。この書物はもはや私にとって「移動する聖書」なのかもしれない。これを私に貸し出してくれたICCのH氏に感謝申し上げたい。
 
テレビにとって映画のスクリーンにあたるものは何か、マクルーハンはこう答えた。「それは、テレビを視る者である」。
 
 

 
参照:
伊藤俊治, 港千尋, 今福龍太ほか『移動する聖地ーテレプレゼンス・ワールド』, NTT出版, 1999, pp.75-93, ISBN-13: 978-4757100213, on Amazon
Marshall McLuhanほか, 翻訳 大前 正臣ほか『マクルーハン理論―電子メディアの可能性』,平凡社, 2003, ISBN/EAN: 9784582764611, on Amazon

 
LINK
MP3『夜の祭典』/ Ei Wada with Mustekala (2006)
MP3『捧げる』/ Ei Wada with Mustekala (2006)
※当時の「マルハバ・ジャイーラ」中の音源記録。(Ei Wada - Jaira Television Noise & Tape Deck, Mustekala are Taigen - Effects, Waten - Gtr & Per)プライベート音源の公開になります。音量と内容にご注意ください。
 

3 comments:

masaki said...

テレビにとって映画のスクリーンにあたるものは何か、マクルーハンはこう答えた。「それは、テレビを視る者である」。


この一節おもしろい。

レヴィナスにおけるメディアの関係性って、
1対1になることをいっているらしいのだが。
というのは、ナチが映画的な手法で、映写機でマスにうったえかけるメディアを展開し、
その結果ホロコースト発生みたいな。
ハイデッガーの哲学はそれらしいな。

でも、ドゥルーズの映画論というのは、
発信者と視聴者のあいだに切断を置く。つまり、プロジェクターにおけるスクリーンが想定されるんだね。
レヴィナスにおいては、プロジェクターを直接覗き込むのか、っていわれると滑稽におもえるが、
祭壇として考えるなら、プロジェクターを直接のぞくのもありなんよね。

これは、廣瀬純がいっていたはずのことですが
そこから発展させるなら、
レヴィナスを再評価することが、スピリチュアルな関係性を考慮にいれるとできるってことだ。
神秘とか神との関係性が1対1で表現されるように。

これやばいね。

桂 said...

イイネ。
やばいね。

Ei Wada said...

少々マニアックな記事なのにも関わらず、コメントありがとうございます!
 
雅樹>
プロジェクターを顔面にあてるという鑑賞方法は知らなかった。8mmの映写機でもいいかもしれない。フィルムに傷をつけ、ループさせ、光の点滅を網膜に映す。するときっとそれはドリーム・マシンになるのだ。そして1対1対応がこう思わせてくれるだろう。"I can fly!"